Thursday, March 13, 2008

私の弁論大会の三番目のスピーチ

どうして流れに反しても頑張りたいか

私は、子供のころから いろいろな所へ行って、その経験から たくさんのことを学びました。その中で一つ強く印象に残ったのは 環境がどんなに人の振る舞いに影響を及ぼすか ということです。

家でも 学校でも 会社でも、私たちは 努力しなくても 気づかないうちに 周りの人の考え方や 行動を 学んでいきます。

例えば、積極的な雰囲気の家では ほとんどがプラス思考の人になります。
もし、周りの人みんなが頑張っているところにいたら 自分も頑張り、みんなが怠けているところにいたら だんだん怠け者になるでしょう。

環境からいいマナーが 自然に得られるのは幸運なことですが、残念ながらそこから 悪い癖も得やすいものです。

もし 自分達が いやなことをしている と気づいたら、どうしましょうか。
他の人と同じように そのままにしておきましょうか、

それとも やめる努力をしましょうか。

流れに沿っていく方が易しいので、流れに反するのは難しすぎる、無理だ、と考えて あきらめるのも当然です。そして、その気持ちは よくわかります。でも、私はそれに挑戦したい と思っています。

もし 人が何かを正しいことだと気づいても それをしない、
何かを悪いことだと気づいても それをやめないでいると、
その人の中に 大きな矛盾が生まれて 生産性が落ち、
目標を達成できなくなる と思うからです。

自分達の行動を変えて 周りの人達に影響を及ぼすことで 環境は変えられる と思います。

例えば、たくさんの人がスピードを出して 自分勝手な運転をしているとき、ある人がスピードを落として 隣の車に道を譲ろうとすると、その人の後ろの車からクラクションを何度も鳴らされたり、ヘッドライトをフラッシュされたりすることが よくあります。でも、たまには、「うん、思いやりがあっていいな~」とか「いいことをしているな、自分もやってみようかな~」と思う人もいて、そんな人が 少しずつ増えていきます。

ここで 私の経験を お話ししたいと思います。

6年ぐらい前、私の弟は 友達とイスラム教の祈りについて 議論しました。友達が、「僕は神を信じている。それだけでいいと思う。祈りは必要じゃない。」と言うのに対し、弟は「イスラム教にとって祈りはたいへん大切なもので、正当なイスラム教徒には欠かせないものだ」と主張しました。しばらく押し問答をした後、友達に「お前は祈りが大切だと言っているけど、自分はしているのか?」と聞かれて、その時、祈りをしていなかった弟には 返す言葉がありませんでした。

以来、弟は 毎日 祈りをするようになったのです。 その頃、私の家族や友達は、イスラム教に毎日五回の祈りが 不可欠だと信じながらも、実行している者は 一人もいませんでした。

はじめは、同じライフスタイルを続けている私たちの間で、この新しい経験を分かち合える人も、彼の行動を支持してくれる人もなく、弟は一人で大変苦労しました。

でも、時間が経つに連れ、彼の祈る姿を見ているうちに、私や両親を含む周りの者たちが、少しずつ、「自分も祈りをするべきだと思うのに、どうしてやっていないのだろう」と考えはじめ、この心の中のかすかな声は、やがてアザーン*のように大きくなってきました。

こうして、 一人また一人と、弟の側で祈るようになり、 家族や友人の間で祈りをしない者がほとんどいなくなりました。

ここまで変わるのに、およそ2年かかりましたが、この経験から、私は、周りの人の流れに逆らって、更に彼らに影響を及ぼすためには辛抱強くそして根気強く頑張ることが大切であると 教えられました。

ムスリムでない方々には、祈りの大切さをご理解いただけないかもしれませんが、自分の信念に沿って行動することの大切さは、どなたにも分かっていただけると思います。

最後にアイルランド人の作家ジョージ・バーナード・ショウの名言で締め括りたいとおもいます。

「分別のある者は自分を世界に合わせようとする。
分別のない者は世界を自分に合わせようと頑張る。

ゆえに、分別のない者がいなければ進歩はありえない。」


さて、皆さんはどちらですか。

*アザーンاذان adhān)は、イスラム教における礼拝(サラート)への呼び掛けのこと。

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以上です。読んでありがとうございました。
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